本町は、北部九州の中央に位置しており、脊振山系に源を発した寒水川、切通川などが、なだらかな丘陵地帯と田園地帯を流れて筑後川に注いでいます。
本町は、筑紫平野の穀倉地帯の一部として重要な役割を担っており、人々が住みやすい環境に恵まれた地域で、佐賀県東部の中核都市鳥栖市や福岡県久留米市に隣接していることもあり、近年は良好な自然環境を生かした生活圏としても注目されています。
佐賀県みやき町の新名所「11月に咲くひまわり園とハゼの紅葉」。黄色の絨毯のような満開のひまわり園と真赤に紅葉するハゼ山。その絶妙のコントラストは、一度見たら忘れられません。
最高の肉質である「5」等級および「4」等級のBMS「No.7」以上という最高級牛肉「佐賀牛」。柔らかい赤身に見事なサシは牛肉の芸術品といっても過言ではありません。新鮮な状態で食べていただきたいから、こだわりのチルド(冷蔵)便でお届けします。
大河筑後川からもたらされるみやき町ならではの恵みと言えば、うなぎです。甘口でこってり味のタレ、純国産のうなぎにこだわり、ふんわりと丁寧に焼き上げるうなぎは、まさに絶品!
平安時代の半ばごろ、藤原一族が摂政関白を占めていた時代のお話です。天暦5年(951年)、人々は疫病の流行と天災が重なり苦しんでいました。綾部郷でも、たび重なる風水害のため村々は悲惨なありさまで、倒れた家や流された家畜も多く、村人は捨て子や疱瘡、飢えで生き倒れと、哀れな状態でした。 このころ、脊振山の名僧、性空上人の伴侶に隆信沙門という若い僧がおりました。 隆信は、人々の苦しみを見て、法華経一万部を読み上げ、疫病退散、風水害除去、五穀豊穣の大誓願を決意しました。 村人たちは、これを聞いて隆信の悲願に感謝しました。しかし、その達成は難しいと思われ、「千年の姥塚から妖怪が出て人を食う」「七曲の四十八怪が襲う」「蛇が谷の大蛇が出るから危険だ」などといって、しきりに思いとどまらせようとしました。 しかし隆信は、人々が引きとめるのも聞かず、笠と杖を持ち、経巻を詰める笈(おい)を背負って、誓願に出発したのです。その態度は、一大勇猛心を起こし決然としていました。 隆信は見送る人々を振り返り、満願の日を50日と約束し、万一の場合を頼んだのでした。 経巻を背負い、谷川を登り、深道を抜けて、脊振東峯草の横山の風穴近い広場に着きました。 隆信は座禅し、49日を期限としてひたすら一万部読経に務めました。朝は東の空を仰ぎ、夕方には狭霧のたつ谷間を見下ろして、大願成就に精進し続けます。こうして千部、二千部と読み進むうちに、隆信の澄んだ声も掠れかすかになっていきました。 その声は絶えるかと思えば、暁の風によみがえり、やっと30日を過ぎました。飢えれば木の実を口にし、のどが渇けば笹の葉の露で潤して命をつなぎます。隆信もさすがにやせ衰えて、精力も尽き果てていました。 やがて、九千部の山頂は秋が深まり、やせてしまった隆信にはその風が肌身にしみました。時折、若い僧の胸に不安な思いがよぎります。「果たしてこの発願は神明に通じるだろうか」「人々の苦悩を救う霊験が得られるだろうか」。 満願の49日まであと7日、一万部の読経も残り少なくなった夜のことです。すすきの穂をわたる風はいつになく止み、脊振の山姿が幻のように見えていました。いつしか隆信はうつらうつらと・・・。 ぱっと目を開き読経を続ける丑三つ時、耳にふと妙な音が聞こえました。振り返って見回しても、景色はいつもと変わりません。「今夜はなんとなく不思議だ。おかしなこともあるものだ」と思いつつ読経を続けました。 しばらくすると、風穴あたりから赤い目をした白蛇が這い出てきました。じっと隆信を見つめ、そのうちどこへともなく姿を消しました。 すると生暖かい風が吹き、きぬずれの音がして、かぐわしい香りが漂ってきました。はっと振り返ると美しい女が立っていたのでした。
女は「おいで、おいで」と手招きし、隆信は、一瞬、うわさに聞く基養父弁財天さまの来現かと思いました。しかし、風神の祈願に弁財天が現れるのはおかしく、まして、人間の女がこんな山奥に住んでいるはずもありません。これは鬼女に違いない。「鬼女よ、どけ、どけ」 しかし、女は手招きをやめようとしません。この世のものとも思われぬほど美しく、唇はほころび、ほほえみを浮かべています。隆信は、ついついその姿に心を奪われ、読経の声もとぎれがちになりました。 女は次の夜も現れました。次の夜も、次の夜も・・・。そのうちに隆信の村人を思う心は、女を待つ心に変わりはじめました。数珠をつまぐり、まぶたを閉じても女の姿は消えません。女が身を寄せたとき、隆信は夢うつつとなり「ああ、なんとかぐわしい匂いじゃ」「ああ、なんと柔らかい体じゃ」数珠をつまぐっていた手は、女をかき抱いていました。
やがて満願の日がきました。九千部の山には相変わらず強い風が吹き荒れています。朝、大勢の村人が祈祷場にやってきましたが、隆信の姿は山頂にありませんでした。 やがて、谷間の岩陰から、やせ細った骨ばかりの骸が発見されました。村人たちは驚き悲しみ、その屍を葬りました。 その後、ここから西へ200メートル離れた風穴の地に、法華経を埋めて経塚としました。祈祷場には石を積み、左端に隆信の供養塔を建立し、中央に風神の級長津彦命、右端に級長津媛命の2柱を合祠したのでした。
寛政年間の佐賀領は、大雨洪水被害や雲仙眉山爆発、疫病流行、そして再度の大雨洪水による流屋や大干ばつなど、災害疫病に悩まされていました。そのため寛政11年(1797年)8月、九千部山の祈祷地に安置するため、石の祠が造られました。しかし、引き上げが難しく、山田橋のたもとに祀られていました。
その後、神の意志に綾部宮山に移ると出たので、大正2年6月18日に宮を移しました。 その石の祠が、まだ山田橋のたもとにあったころ、目の赤い長さ40センチメートルぐらいの白蛇がおりました。しかし、宮山遷座の4、5日前から白蛇の姿が見えなくなり、近所の人たちが探しましたが、見つかりませんでした。
ところが、白蛇は村人の心配をよそに、風の神様より先に1キロメートルも離れた宮山山頂にきていたのです。 「九千部の祈り」の伝説に、隆信の残すところ一千部となった読経を挫折させた、十羅刹女九名皐諦(くなこうたい)の誘惑の化身が出現する前に、白蛇が這い出しています。この話からか白蛇は風神の使いといわれています。
米作りに水がなければ、収穫もありません。 寒水町にお光という60歳すぎの、夫をなくし一人暮らしをしている女がいました。お光さんは、水掛かりのよい田を6反ほど耕していました。 しかし、一人暮らしの女の悲しさで、せっかく掛けた水も男たちにゴッソリ盗まれてしまいます。毎年、除草用のガンヅメ(鉄製の熊手)も打ち込めないほど地面が乾燥し、苦労していました。
ある年のこと、干ばつのため、稲は枯死寸前、百姓は田の草もとれません。溝や堀の水はもちろん、水という水を桶でくみ上げるのに一生懸命でした。 真夏の太陽が体をただれさせるのではないかと思うほどの灼熱が続きました。あと5日も雨が降らなければ稲は枯れてしまうまでになったのです。その時、村役から綾部新塘からの最後の水取りのふれが出されました。百姓たちは、目の色を変えて立ち上がりました。ところがお光さんは、水取りの日、頭が痛いと井堰の番の工役にも出ずに布団をかぶって昼寝してしまいました。 しかし、夜もふけたころ、お光さんはツト起き上がりました。そして、髪を乱し白粉で厚化粧するや、白い着物を着て家を出たのです。 男たちは、宵闇の迫るころから、水番のため、隣近所の男の出入りに目を光らせています。そのころ、弥一という強欲な若者が4度目の見回りに出かけました。 昼間は暑くても、夜半は、土の湿りが足の裏に心地よく感じられます。 南裏のハゼ畑を斜めに突っ走り、庚申森を抜けようと、小道まで覆いかぶさる松や櫟の枝の下を急いでいました。 その時、「ガサッ」。潅木の茂みに音がしたかと思うと、ボーっと灯りが見えたのです。「ワーッ!」とたんに弥一は叫び、その場で腰を抜かしてしまいました。目の前には唇が耳まで裂けた鬼女が、ざんばら髪を振り乱して、ウウウと吼え怒る呪いのうめき声をあげているのです。「ゆっ、幽霊!」さすがに強欲な弥一も、魂の消えるような悲鳴をあげて、慌てて立ち上がり一目散に逃げ出しました。
なんと幽霊の正体はお光さんでした。お光さんは、一日中寝て体を休め、男たちを追い払う計画を立てていたのでした。くしを咥え、うめき声をあげると、後からきた男たちも逃げていってしまいました。お光さんは悠々と自分の田にたっぷりと水を入れることができました。 その後、村人たちの間には、お光幽霊の名が広まったということです。
向島地区の乙護神社というお宮があります。 昔、そのお宮の近くでかわいい女の子が生れました。丸々と太った子でありましたが、日晴れがすんだころから夜になると目を覚まし、夜通し泣くようになりました。こんな日が何日も続き、子どももだんだんとやせ細っていき、ついに死んでしまいました。
家の者はたいへん悲しんで、お宮の裏に女の子の墓を作り、お地蔵様を祭り、ねんごろに弔いました。 その後、近所にまた夜鳴きする赤ちゃんがいて、このお墓を参ったところ夜鳴きをしなくなりました。この話はだんだん広まって、お地蔵さんにお参りする人が次第に多くなり、「夜鳴き地蔵」と呼ばれるようになりました。
本町には、現在58の行政区があり、そのうちのひとつに『千栗』と書いて「ちりく」と読む地区名がある。 通常の読み方であれば、「ちくり」と読むのであろうが、反対に読んでしまうのはなぜであろう? そこで、本町の歴史や各地に言い伝えられていることがらをまとめた“北茂安町の史話伝説”の中に次のような記載があり、この読み名の謎が記載されていました。 当該地区は古く古代律令制の頃には三根郡の北東端にあり、「知名抄」の郷名にすでに「千栗」という記載があり、呼称は高山寺本の訓「知利久」のとおり「ちりく」と呼ばれていた。 では、なぜ「栗」と書いて「りく」呼ばれるようになったかであるが、そのことは以下の伝説により、その謎が解けるのではないかと思います。 “一体「千栗」という地名は「千の栗がいっぺんに芽が出たちゅうこつからきたとばい。」と、いう事くらいは、地元の大方の人が耳のどこかにさしはさんでいることであろうが、もう少し詳しく述べると次のとおりである。
この当地区には千栗八幡宮という神社があり、この神社は当時の郡司壬生春成が八幡大神のご神託を受けて創祀したわけであるが、ある日壬生春成がこの地で猟をしていると、どこからともなく一羽の白鳩が春成の弓先に止まった。春成は不思議に思いながら、猟を終え夕方家に帰った。ところが今度はその晩、一人の白髪の老人が夢に現れて、「八幡大神のご臨降の目出たい瑞相だ。」と言って千個の栗の実を授けた。不思議で成らない春成は、昨日猟をした場所へ行ってみると、何と千株の栗の木が一夜のうちに生い茂っていたという。このことをのちの神亀元年に聖武天皇に奏上したところ、天皇も大変に喜ばれ、第二皇子を祭主としてこの宮を建てられたという事である。” 以上の由来のとおり、「栗」にまつわる伝説の由来により、「栗」という字をあてて「ちりく」と呼ぶようになったものと言われています。